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想い [日記]

表面{おもてづら}はとても愛想いいのだが
常日頃から人の陰口をたたく後輩がいる。

本人には陰口・悪口という自覚はなく
ただ正論を述べているだけのつもりのようだが…

それは “自分は常に正しい” という過信が招くもの。
人ひとりが把握している知識・情報なんて、ごく僅か。
それを基に、一個の人生経験が導き出す結論など
たかが知れたものだというのに
それには気づかない。

それを愚かだと批判するつもりはない。
若いな。
そう思うだけだ。

そんな彼女の、私に対する誤解。
今日、その誤解がひとつ解け、
彼女はひとつ、自分の過ちに気づいたことだろう。


その仕事現場で
マネージャーから、別の後輩女優のご主人の訃報を聞いた。
53歳、がん。まだ若い。
この一年、
彼女は自宅看護をしながら仕事をしていたそうだ。
いつも明るく元気な彼女。
同時期に2本の舞台を抱えていた昨夏の彼女を思うと
その大変さはいかばかりだったろうか。


70年代半ばの青春ドラマ『俺たちの旅』。
そのラストでは
主演の中村雅俊が唄う ♪ただお前がいい♪ をバックに
毎回、短い散文詩が添えられていた。

「たとえ淋しくても
 たとえ苦しくても
 いろんな事があったほうがいいじゃないか
 人生は―」

これは、つい今しがた
久しぶりに観た第32話の詩だ。

普段、雑感は facebook に書き込むことが多いが、
こういった類の心模様は、「友達」に向けては語れない。

久しぶりに、一人 Bar に出かけた。
カウンターの奥には、マスター夫妻のいつもの笑顔、
私のほうを振り返り同席を喜んでくれる飲み仲間たち。

一時間ほど経ったころ
ある年配の常連さんが、お友達を連れてやってきた。
二人のために、席をずれてカウンターの端へ移動する。
隣りに座ったお友達、
彼はかなり出来上がっていて、
片端から自分の話に相づちを求めてきた。

相手を思いやれない無粋な人間。
どんなに酔っても
その Bar の常連にそんな人はいない。

ベアードビールのインディア・ペールラガーと
ダッドソーダを一杯ずつ。
腰を上げ、店をあとにした。

帰り途、遠方は雪国に住む友人から
淋しげな内容のショートメールが届いた。
別段返事を求めない、小さなつぶやき。


彼は、彼女は
今何を考えているのだろう、どう感じているのだろう。
他人{ひと}の心など、
所詮、傍から推し量ることは出来ないのだ。

他人を思いやることの大切さに感じ入り
それが「生きる意味」だとプラスに捉えるのではなく、
詰まるところ人は一人なのだ、と淡々と受け止め
ふと疎外感を覚えた夜。

ただそこに、寂しさは欠片もない。
 
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『苺とチョコレート』 [洋画(ア行)]

「苺とチョコレート」(1993)★★★★70点
原題: FRESA Y CHOCOLATE
英語題: STRAWBERRY AND CHOCOLATE
監督: トマス・グティエレス・アレア、フアン・カルロス・タビオ
製作: ミゲル・メンドーサ
原作・脚本: セネル・パス
撮影: マリオ・ガルシア・ホヤ
音楽: ホセ・マリア・ヴィティエル
出演:
 ウラジミール・クルス(ダビド、大学生)
 ホルヘ・ペルゴリア(ディエゴ、小説家)
 ミルタ・イバラ(ナンシー、ディエゴの隣人)
 フランシスコ・ガットルノ(ミゲル、ダビドのルームメイト)
 ヨエル・アンヘリノ(ヘルマン、ディエゴの友人)
 マリリン・ソラヤ(ビビアン、ダビドの恋人)
受賞: 
 ベルリン国際映画祭
  ■審査員特別賞・銀熊賞: トマス・グティエレス・アレア
製作・ジャンル: キューバ・メキシコ・スペイン/ドラマ/110分

strawberry and chocolate.jpg








 
共産主義者の大学生ダビドとゲイの小説家ディエゴの交流を
80年代はキューバのハバナを舞台に描いた作品。

物語が始まってすぐに二人が出会うオープンカフェ。
ダビドに好意を抱いて近づいたディエゴ。
そのディエゴが食べていたのが苺のアイス。
ダビドが口にしていたのがチョコレートアイス。

ストレートとゲイ。
共産主義の闘士と自由を愛する芸術家。

タイトルの "チョコレート" と "苺" はその対比を表す。

芸術を愛し、それを守る為には闘うことを厭わないディエゴ。
小説家志望でもあるダビドが
そのディエゴに感化されていくのは時間の問題。
それは観ている者にも、間もなく推し量ることができる。

冒頭で恋人に裏切られた童貞君が
自傷行為を繰り返す明るくも繊細な女性・ナンシーによって
大人へと導かれる。
思想的な側面と同時に、性に関しても世界を広げていく。

そして、オーラス。
冒頭と同じオープンカフェで、
出会った時のディエゴさながら
その台詞まで真似ながら苺アイスを頬張るダビデ。
そこにダビデの変化と成長が見てとれる温かい場面である。

映画の終盤、
ルームメイトでバリバリの共産主義闘士のミゲルが
ディエゴ宅に押し掛けてひと悶着起こすシーンがあるが、
その一件が新たなる展開への伏線かと思いきや
ダビドとディエゴが友情以上性愛未満の熱いハグを交わしたところで The End。

そういった終わり方が悪いとも
お粗末なラストシーンだとも言うわけではないのだが、
普通すぎる結末に拍子抜けしたというのが本音。

ディエゴを演じるペルゴリアは
私がニューヨークでルームシェアしていたゲイのバレエダンサーに、顔立ち・柄・仕草など、色々なところがよく似ている。
そいつは女性で言うところの"ビッチ(Bitch)"野郎だったが、
ディエゴは、それとは全く違ってとても心優しい。

キューバにおいて
同性愛者が当時どういう立場に立たされていたのか
現在はどう位置づけされているのか。
私はそういった知識を持ち合わせていないが、
体制と闘い続けていたディエゴが亡命を選択するに至るということは、同国で性の解放が進んでいなかったのが実情だったに違いない。

この映画、視点を
ディエゴにとれば、ある芸術家の純愛映画、
ダビドにとれば、ある大学生の青春映画。
 
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人間万事塞翁が馬 [日記]

ことわざ自体を最近あまり耳にしない気がしますが
2014という年を振り返るに
このことわざを実感する一年でした。

「人間(じんかん)万事塞翁(さいおう)が馬」

人の禍福は予測がつかない。

禍と思った恋愛が一時の幸福感を呼び、
その恋の終焉が心痛をもたらす。
しかし、終焉を迎えたまさにその夜から、
私の隙間を埋めんがごとく、人が集まってくるのであります。

ホント不思議なもの。

思えば、異性に振り回されたのは初めてでした。
今までいつも、自分のペースでしか恋愛を重ねてこなかった。
そんな自分が、気づけば、逆の立場にいたのです。

相手との関係、彼女の魅力、自分の年齢
複数の要素が私に自分を見失わせたのだろうと思います。
中でも、関係性、つまり相手から見た私の立ち位置が
私からすっかりゆとりを奪っていたのでしょう。

因果応報。
いや、これもある意味、塞翁が馬なのでしょうね。

ともあれ、あの夜から
私自身というよりも、取り巻く環境の方が、
「本来の自分を取り戻せ」と
私の人生の舵を勢い良く切りつづけているんです。

これまでも、いろんな人から、
折に触れて、性格を以って「ジャックナイフ」と評されてきた私。
2015年は
その刃に焼きを入れ直し、もう一度鋭く研ぎ直して
キレキレのジャックナイフに立ち返ってみようと思います。
いいえ、自然に戻ってしまうでしょう、きっと。

first fire 2015.jpg

そして、
人間万事塞翁が馬を胸に、人生を楽しみます!
 
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